先日某ゼミで聞いたことをからめつつ、フーコーと美学について考えました。


 美学の前に右翼思想について。右翼思想の根本には、人間理性の限界を自覚した上で、それでも自らでは統御し得ないものを受け入れるという考えがあるとのこと。言いかえれば端的な意思であり、これは初期ギリシア思想に連なるものとのこと(これで僕がどのゼミに出席させていただいたかはおわかりのはず)。


 もちろん端的な意思は訪れるものですから、自ら超越的な存在を措定し、そこから訪れを待つことは「依存」であり、右翼思想とは似ても似つかぬものというわけです。同様に神秘思想にしても、何かに依存するという意味で否定されることになります。
 超越や絶対に頼ることなく、不可視の全体性(内発性)に揉まれながらも前に足を踏み出すこと、この姿勢を右翼は重視するそうです。


 ここでやっと美学について。美学とは先の右翼思想と親密性を持っています。美学の本質もまたこの不可視の全体性に貫かれているという事実によって強調されますが、ただしこの全体性が何かということは基本的に問えないことになっています。それを問うことが不可能であるが故の危険もありますが、問うことの不可能な全体性に貫かれている状態とは、自己が可能な限り自己をその臨界点へと導こうとする高揚感にあふれた状態なのでしょう。そしてこの内発性は、他者のふるまいによって喚起されるのです(ミメーシス)。その意味でいえば、日々を退屈に過ごしている人間が、何かの拍子に内発性を喚起され、日々何かに耽溺しつつ充実な毎日を送るということにでもなるのでしょうか。いずれにせよ、右翼思想とは危険をはらみつつも魅力的な概念ではあると思います。


 フーコーはこの全体性に貫かれた内発性を軸に「生存の美学」を唱えたというのが先生の見解です。僕も同意します。ただ僕としては付け加えたい点がいくつかあります。
 まず、フーコーは美学的側面の強調と同時にファシズムに抵抗せよと主張しています。右翼思想は使い方を間違えるとファシズムを引き寄せることにもなるからです。詳しくはまた書きたいのですが、フーコーに「啓蒙とは何か」というカントが書いたのと同名の論文があります。そこでフーコーは、過去や未来への推移点としてではない純粋な現在性(アクチュアリテ)に依拠して自らの理性を使用せよと述べています。彼からすれば、全体性に貫かれた存在が、その全体性に貫かれつつも自らの理性を今この瞬間に行使する姿を良しとしたいのではないか。内発性と理性の関係が自己の中でどのように絡み合うのか、興味のあるところです。


 フーコーの場合、理性を使用するとは=批判することです。フーコーは言います「「批判」とは、ひとが認識しうるもの、なすべきこと、希望しうることを決定するために、理性の使用が正当でありうる諸条件を定義することを役割とするものだからだ*1」。


 フーコーにとって批判とは、理性の使用の条件を定義することです。もちろんフーコーにとってこの批判=理性の使用は、唯一普遍のものを想定して実践されるものではありません。フーコーは社会がシステムの産物であり日々システムが更新されることを認識しているので、フーコー的な「批判」がシステムの更新に寄与しつつも、新たに更新されたシステムにもまた批判を加えるという「影絵を踏む」ような実践をフーコーは想定しているのだと思われます。


 いずれにせよ日々更新される社会の中でフーコーの「批判的態度」が柔軟に適応されることを望みますが、これを単なる「反権力」の思想と認識すると、フーコーの思想が恐ろしく矮小化されてしまう危険があります。この点についてもまた稿を改めて書きたいと思ってます。とにかく先日のゼミでは、フーコーの右翼思想的側面と政治哲学的側面の接合について改めて検討する余地について考えさせていただきました。何事も一人で考えるだけでははじまりません。

*1:M.Foucault, Qu’est-ce que les Lumiére ?, Dits et écrits?, 1976-1988, Gallimard《Quarto》, 2001.p.1387(「啓蒙とは何か」(石田英敬他訳『ミシェル・フーコー思考集成?』所収、筑摩書房、2002年、12頁)