我が麗しの童貞時代

宮台氏と速見氏の共著『不純異性交遊マニュアル』を読書中。本書では東大の童貞軍団と、青山とか慶応のスティンガー(ヤリチン)軍団の対談が収録されているが、どっちの話もメチャおもろい。

 自分が童貞だった頃はおろか、つい去年くらいまでは完全に童貞軍団的思考だったことを恥ずかしながらも再確認させていただいた。
 要するに、童貞は理論専攻。恋愛においては、セックス=結婚で、ひとりの人と付き合うことができたら、その人が一生の人間でいることが前提。そもそも付き合うこと自体そうした前提をクリアしてからでないと付き合えないという完全に観念型のタイプが多いようである。
 対してスティンガー的な思考は、とにかく街に乗り出してセックスしながらも、しかし場合によってはピュアで素敵な恋愛に出会えることがあるかもという期待をしているらしい。

 要するに、人と付き合ってみて初めて、あるいはセックスしてみて初めてわかる部分が必ずあるわけで、そもそも自らの理想(イデア??)に現実に近づけようとするか、現実に自分を合わせていくかの対立構造が浮かび上がるという方法が展開されている。
 スティンガーは女をポイ捨てして傷つけるわけだけど、童貞も童貞で、恋愛に対する完璧な理論武装故に、現実の世界で起こりうるさまざまなことが想定できてていないという悲劇あるいは喜劇が、逆に女の子を傷つけることもあるという(女の子の誘いを見抜くことのできない、ああ悲しき童貞の性!!)

 いずれにせよスティンガーも童貞も、自らの理論に従順であるという点において、つまり自らの確固たる思想(と言えるかは微妙だが)をベースに行動が開始されている。問題は、現実に乗り出すか乗り出さないか。僕の感想では、傷ついたり傷つけることがあっても、そういう経験をしない限り自己信頼(自身)≠プライドは養成されないであろう。その意味でスティンガーが良いのかと言えばそうでもない。なぜなら、彼らも自らの思想的基盤をベースに行動を決定するのであるという点においては、いかなる経験も自らの矮小化された論理に内に回収されてしまう恐れがあるからだ。体験が新たな思考産出の契機になるのではなく、体験が既存の思考の枠組み内部に回収されるのでは、人としての発展がないのは明らかであろう。