昔ミクシーに書いた日記を転載。こんなこと考えていたのか。。。



「他」なる「モノ」は常に「手段」として適応される。他なるモノは食物として、衣服として、住居として自分のための手段として適応されるのであり、まさにその点があってこそ「モノ」は「物」として認識される。
 このことは人である他者であっても例外ではない。私が今こうしてパソコンの前でタイプするための電力をつくる人を、私は電力のための手段として適応し、友達を時間潰しや愚痴のはけ口の手段として適応し、恋人を孤独の回避という手段として適応し、果ては子供を老後の世話をさせるために適応させるetc.そしてまた今こうして存在するこの私も、だれかの手段として適応されている。
 子供を虐待してしまうかもしれないから子供を産みたくないという人がいるが、その人の不安は至極当然のことではないだろうか。なぜなら、我々はこの世界の全てを「私」の世界観のうちに内在化させ、そしてまた全てはこうした「私」の世界で行われるのだから。その中では他なるモノは全て私のうちで内在化されたモノとして、手段としてのみ適応される。つまり泣き叫ぶ子供は私にとって何の手段にもならない存在であり、だからこそ子供を虐待してしまう危険性から子供を産みたくないのだ。
 ここで強調されるべきことは、内在化の暴力である。私が他なるモノを私の認識の対象として、私の世界へと引きずりこんでしまうこと、これは不可避の暴力現象となってしまうのである。それは、私が他者の他者性を奪ってしまうことになるからである。本来モノとは、人間が完全には認識出来るはずのないモノである。例えばコップを例にとろう。このコップとは何か?と問われれば、①ガラス製である②液体を飲むものetc...と無限に解釈がある。しかし私にとっては液体を飲むためのものであったとしても、人を殺そうと思っている他人にとっては凶器と映るかもしれないし、コップを使わない文化圏にある人(今でもそんな所があるかはわからないが)にとっては、もはやコップとは何であるかはわからない。こうした様々な解釈の中で、コップを液体を飲むものとして認識することは、厳密にはその他のコップの認識の可能性を否定することになる。つまり、ある観点からモノを(手段としての)物として認識すること、これは他者の絶対的他性なるものを、私の主観のうちで、他者の承認のないままに形作ってしまうということであり、それはまさに暴力なのだ。

 しかし他なるモノが私の手段としてのみ存在を許される。世界がすべてそのような存在であったとしたら、もはやそこに倫理は存在しない。他なるモノが私の手の届くところ(つまり私のうちに内在化されること)にあるのではなく、手の届かないところ(内在化されないところ)にあるからこそ、始めて人は私以外の世界に対する反応を見せ始める。それが倫理ではないだろうか。
 考えてみれば、なぜ虐待してしまうかもしれないかと、その人は恐れるのであろうか。他者を手段として扱うことだけで世界が構成されているのなら、我々はそんなことに気を揉む必要はない。そしてまた他なるモノとはなんだろうか。他なるモノはその存在に絶対的な他性を持ったモノである。だからこそ我々は他なるモノを内在化させる。ということは、絶対的な他なるモノの、その他性の存在が逆説的に証明されることになる。これは内在化される前の、絶対的な他性の存在を保証するものである。ならばこの他性を感じるときに始めて我々は他に対する態度、つまり倫理が存在していると言えるのではなかろうか。私の世界に私ただ一人のみが存在する限りにおいては、倫理が生成されることはない。他性の知覚が必要とされているのであり、他性の自覚において始めて他者と向き合うことが可能となる。私が存在し、私の存在が他なるモノを内在化させてしまうことは暴力なのだが、この絶対他性存在の自覚において始めて、人は原理的には暴力的存在の汚名を返上「でき得る」(その可能性がある)のである。
 しかしどんなに他性存在の自覚をしても、その自覚は倫理の可能性の存在の証明であり、倫理的行動を保証するものではない。つまり倫理の存在が証明されても、実行されなければ意味がないのだ。
 我々は暴力を常に行使しなければならない存在なのである。内在化、つまり主観的判断を他なるモノに下さない限り、私は1歩も動くことができない。では暴力的な内在化を伴いながらも、絶対的他性を前にして我々が倫理的に行動するにはどうするべきなのだろうか。まさにこの点にこそ愛の存在が必要なのであると思うのである。愛は世俗的な恋愛関係にのみ適応される言葉ではない。経済学的には「無から有の生産行為」が愛であると私は主張する。では倫理にとって愛とは何であろうか。それはまたいつか論じることにしよう。